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塾長のご紹介


薮内隆志(やぶうち たかし)1965年3月生まれ。

 高校3年生のときに私は病気をしました。二年生の冬のマラソン大会でタイムが大幅に落ちたので、スタミナがなくなっているという感じはしていました。不眠が続き、食欲不振や嘔吐。成績も低迷し、結局、愛知県の平凡な文系私立大学(1)にのみ合格できました。
 大学1年生の七夕のとき、キャンパス献血をしたら赤十字から精密検査を受けるようにとの手紙が来て、津市内の総合病院で診察をしたところ、翌日から入院。大学もその年に退学することになりました。生まれつき肝臓に障害があり、それが急速に悪化していたらしいのです。
 人生最初の挫折でした。

 病院の中で私は受験勉強を再開させました。

写真は三重大学病院に入院中の頃

三重大学病院に入院のころ

 私には一つの思い出がありました。中学一年生まで紀州の田舎で暮らしていた私は津市にやってきて、そのレベルの高さに驚きました。田舎では中の上の成績で、どちらかというと頭のいい方だったのに、中の下に落ちてしまったのです。さらに津の中学は社会が1年生地理、2年生歴史の直行型なのに比べ、前にいた中学が地理と歴史の並行型だったために地理の授業の半分が学校で受けられませんでした。学校も「自分で勉強して、わからないところがあれば職員室に聞きに来なさい」で終わりでしたから、独学でやる必要が出てきました。
 そこで必死になったところもあって、2年生で260人中150番前後だったのが、50番前後と上昇し、思わぬ高校に進学できたのです。
 やればできるという経験はありました。

 入院となって、私が始めたのは、勉強方法の勉強でした。
 午前中点滴で、午後9時に消灯という病院生活ではよほど時間を有効に使わないととても成績アップは望めないからです。
 ここで色々なことを学びました。復習の大切さ。記憶法のコツ。参考書との付き合い方。

 さらに私は一つの冒険をしました。現役のときは文系としてやってきたのですが、理系に転向したのです。それは数学の3分の1、物理の半分を高校で学んでいなかったために、最初から独学でやることを意味しました。今思うと無謀な計画のようにも感じますが、これも中学の経験が生きていたからと思います。中学の自分に負けたくないと。
 退院はしても午前中は近くの医院で点滴をしました。左腕に針。右腕で参考書。そのうち、針を刺した腕がしびれて痛くなることがわかり、カセットテープ(今でいうとiPodみたいなものでしょうか)に年号などを吹き込んで聞きました。看護師さんには「暇だから音楽聞いているの?」と聞かれました(笑)。帰宅して食事をして図書館へ勉強道具を持ち込んで勉強しました。夕方に帰宅。夕食後、また寝るまで勉強です。大学に進学している友人から電話があり、「コンパの帰りや」と、酔った口調です。彼らが別世界の人間になっちゃいました。

 しかし、入院と自宅療養の繰り返しの中、成績は私が予期しなかったほどに伸び、かつて全国偏差値総合40台だったのが、1年ほどで60台になったのです。これは某大手予備校が入塾勧誘のパンフレットに宣伝していた平均上昇の2倍でした。
 私が独学で勉強していることを聞いて就職を勧めていた高校の担任の先生が、かなりというか、相当に驚いていました。合格の報を電話で入れたらしばし無言でしたから。確かに私だからこそ余計に驚いたのでしょう。しかしこれは私のとった学習法のおかげであって、私がもともと頭がいいとかそういうことでは決してありません。それなら最初からよい大学に進学していた筈です。この経験は後、こうして学習塾を経営する上で大変、役立っています。最初から勉強できて教師をやっている人は、できない子の気持ちはわからないし、成績を下からあげた経験もないし、上げ方も体感していません。私だからできることが、塾の現場では何度もありました。

 一時自宅療養に切り替えた時期もありましたが、受験を目前にした12月の初めから入院になり、そして翌年の入試までほとんど勉強ができない状態になりました。
 そこで秋の全国模試で、全国順位9位で成績優良者名簿にのせてもらった立命館大学の理工学部なら合格確実だろうと思い、そちらを受験して合格しました。秋の模試では早稲田の理工学部がボーダーラインにのっていたので、あのまま入院がなかったらと思った時期がありますが、何事も天命と思えば、それが最善の結果であることがわかってくるものです。

2

 大学4年間を終了し、私はまた2年ほど自宅療養に入りました。
 あの頃は大学時代よりも色々な思い出があります。一年ほどをまだ元気だった多気郡の一人暮らしの祖母と暮らしました。今は亡き祖母とのいい思い出です。
 この間、他の大学に進学して生涯、大学の研究職で暮らすことを夢見ていました。できれば医学部や薬学部で医学関係の研究を。
 大学4年のブランクはありましたが、学習法を踏襲して、祖母の家で一人机に向かいながらやったものです。

 そして半年後、模試で私はこの学習法の正しさを証明できました。英数理(物・化)が三重県順位で一位だったのです。

当時の成績表。東大、京大志望の人たちと成績を並べました(赤字)。出身校が「検定」になっているのは大卒でもあるし、出身高に内緒で受けていたため(^.^;)。写真右側は都道府県別データで、下欄の二つは上から英数理(1科目)と英数理(2科目)の三重県順位。

 しかしその年の暮れになると、模試の最中に意識を失うなどの症状が出始め、成績が乱高下を始めました。こういうことは今までなかったことでした。今までにない体の異変を感じ、名古屋大学病院で精密検査を受けました。結果、医者からドクターストップがかけられました。人生2度目の挫折でした。
 1、2年ほどアルバイトの塾講師をしながら過ごしていました。大学再進学をあきらめるには2年ほどかかりましたね(^.^;)。
 しかし教えている子供が次々と成績があがり、塾からもよい批評をもらえるようになったので、その道で生きていこうと考え始めました。そして正社員として就職。二つほど勤めました。一つは県内に本社のある塾としては3番目の規模のAスクールに勤め、一つは小さな会社のB進学塾で、こちらは大手出身で高校生が指導できるということで、結構、大切にしてもらいました。また一つの教室の経営まで任せてもらいました。

 この二つの経験が、今の塾の運営にとても役立っていることはいうまでもありません。

 遅まきながら、今の家内と知り合い結婚。結婚前に家内に病気のことをすべて話しましたが、結婚の障害には思わないということでした。今もそんな家内には感謝しています。そして義父も「お前がいいというなら、反対はしない」と、言ってくれました。今は亡き義父ですが、今でも頭が上がりません。
 そして家内の妊娠。
 わかったときは、知人・親戚からおめでとうを言われましたが、子供が大きくなるまで自分が働けるのだろうかという不安が頭をよぎりました。家内は選んで結婚してくれたが、子供は選ぶことができません。

 しかし次の診察で奇蹟が起こりました。

 20年近く異常値が続いた私の血液検査が、まったくの正常値になっていたのです。医者から「滅多にないこと」と言われました。その後も異常値は出ず、経過観察は必要だが、治ったと思ってよいと言われました。
 30を過ぎてはじめて酒の味を知りました(^.^;)。今は休みの日にはビールを夕食で一本頂いています。
 神様は試練は与えられるが、必要なくなればそれを取り去られる方なのですね。


家内と娘と

病気の贈り物

病気は他に私にいくつかの贈り物を下さいました。一つはこの経験をもとに綴った手記がアマチュア作家の文学新人賞に輝いたことです。


さらに、専門誌に連載をもらいました。一時本気でフリー・ライターを考えたこともありました。現在はこの経験が高校生の小論文指導に役立っています。

(1)「平凡」と書いた以上、在校生、卒業生、関係者の方に失礼になるので具体的な大学名は出しません。ただ私の卒業した高校の卒業名簿では進学先がその大学のままです。

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